ONE BUILDING JOURNAL

ブログマガジン

2025.03.28 UP

現代美術家・舘鼻則孝さんインタビュー ∼ クリエイションの原点から未来へのヴィジョンまで ~ 前編

現代美術家として国内外で活躍する舘鼻則孝さん。その作品は、ニューヨークのメトロポリタン美術館やロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館などにも収蔵され、国際的にも高く評価されている。代表作のヒールレスシューズは、今も鮮烈な記憶として留まるマスターピースだ。「ONE FUKUOKA HOTEL(ワンフクオカホテル)」の開業に合わせ、80近い絵画作品を描き下ろし、1体の彫刻作品を収める舘鼻さんに、アートの道を志した必然、ヒールレスシューズのエピソードから、貫いてきた「RETHINK(リシンク)」まで、これまでの歩みを伺う。

手を動かして物を作るのは自然だった

表参道のアトリエにて

シュタイナー教育に基づいて生まれたウォルドルフ人形の作家である母のもと、素材や作品に囲まれて育った。制作現場は遊び場のようなもの。

「母が使っていたのは羊毛。さまざまに加工し、形を変えて物作りをしていました。羊毛はフェルトにもなるし、紡げば毛糸にもなる。毛糸を編めばセーターもできます。そうして原材料が、人の手を介して色々なものに変化していくさまを間近に見ていました」

覚えている限りだが、最初の作品は小学校低学年、ウォルドルフ人形のキットで作ったペンギンの人形。以来、自分の手を一番の道具とする物作りを続けている。進路を東京藝術大学工芸科に決めた時、母は応援してくれたという。

「人形作家になる前、母は栄養士だったんです。美大に行きたかったけれども食の方に進んだ経緯があるので、おそらく子どもに自分の想いを重ね合わせていたのでしょう。銀行に勤めていた父は、とても厳しい人でした。特に否定されることはありませんでしたが、褒められることもあまりなかった。唯一褒められたのは、大学に合格した時だけのような気がします」

工芸科に入ったものの、工芸というジャンルには当初あまり興味がなかった。それでも選んだ理由は、ファッションデザイナーになりたかったから。「ファッションの本場が仮にパリだとすると、日本人の自分が、パリで生まれてパリでファッションデザイナーを目指している人に勝って世界で活躍するにはどうしたらいいか考えた時に、自分の国の文化を勉強するしかないと思ったんです。それで、一番伝統的な技法や文化を学べる東京藝大の工芸科に進みました」

花魁の高下駄を、現代に置き換える

ヒールレスシューズ

工芸科では技法研究が主だが、「江戸時代におけるファッション文化の前衛性」というテーマでも研究を進める。過去の文献を漁り、自分なりに作品へと昇華していく。友禅染を革に施した下駄の作品を作ったこともあった。その延長線上に、ヒールレスシューズが生まれる。

「ファッションは、自然発生的に生まれてくるカルチャーだと思うのです。例えば、花魁が帯を前で締めていたり、かんざしをたくさんつけていたり、高下駄を履いたり、階級があったからこそヒエラルキーの象徴として、そうした装いが生じたわけなんですが、言わば江戸時代のアバンギャルドなファッションとして、非常に興味がありました。ファッションはストリートから生まれる感覚ですよね。実際、当時のブロマイド写真のように浮世絵が存在していますが、それを町娘が見て、花魁のメイクが流行ることもあった。ファッションリーダー的存在だったんでしょう」

卒業制作として発表したヒールレスシューズだが、レディー・ガガを象徴するシューズとして大きな注目を集めることになる。レディー・ガガの専属スタイリスト(当時)ニコラ・フォルミケッティに自ら売り込み、約2年半で30足ほどを提供した。

「デビューのきっかけが欲しかったんです。2010年3月の卒業式の翌月に、レディー・ガガさんがライブで東京に来ると報道で知りました。また彼女には、世界を回る中で、その土地の若手デザイナーの服やアクセサリーを身に付けるというポリシーがあることも分かったので、自分にもチャンスがあるかもしれないと、ニコラさんのホームページの問い合わせフォームから直接連絡しました」

結果、1足目の納品依頼を受ける。卒業からわずか3週間後のことだった。「レディー・ガガさんに直接聞いたことはないのですが、気に入ってくれたんだと思います。いつも『NORITAKA SHOES』と呼んでくれました」

並行して、さまざまな創作も行なっていた。現代美術家として舵を切ったのは2014年。ギャラリーでの作品発表もスタートする。しかしインパクトが強かっただけに、「舘鼻=ヒールレスシューズ」のイメージを払拭することができず、どうしたらいいのか悩んだ時期もあった。それでも、物作りに対するスタンスは揺らがなかった。

「RETHINK(リシンク)、つまり過去の日本文化の延長線上に今何をすべきか、ずっと考えているだけなんですよね。ヒールレスシューズを生み出したのも、世界の人に、着物を着なくなった時点で日本のファッションが途絶えたように映っているのが、嫌だなと思っていたから。海外の美術館や博物館で、日本のファッションはミュージアムピースにはほとんどなっていなかった。現代の日本ブランドは注目されていても、それが日本の歴史文化とどう結びついているか、理解している人は少ないのでないか。なぜ日本で厚底ブーツが何度も流行っているのか、日本に存在する外国にはない感性を定義したかったのです。海外の方たちが、しっかりとその文脈を受け取って評価してくれたと思っています。そうしてニューヨークのメトロポリタン美術館やロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館に作品が収蔵されることになり、自分がファッションの分野でやりたかったことは叶えられたんですよね。だから、ヒールレスシューズ自体はもう完成された作品として、レディー・ガガさんと仕事をした際に作ったモデル以外は作っていないです」

工芸科で学んだ知識や技術を生かしたいと、活動の幅を伝統工芸士との作品作りにも広げていく。2014年にはカルティエジャパンを介してカルティエ現代美術財団とつながり、2016年にパリで文楽公演を開催。最初はフランスの人形劇の監督をオファーされたのだが難しいと感じ、日本にはユネスコ無形文化遺産に認定されている人形浄瑠璃がある、と話したという。「伝統工芸だけでなく、伝統芸能ともぜひ一緒に仕事がしたい」と、人形遣いの桐竹勘十郎さん(2021年人間国宝に認定)に声をかけ、実現に至った。「それまでも自分で行動して掴んできたので、何にチャレンジするにも抵抗はなかったです」

目に見えないものを描く


ONE FUKUOKA HOTELの絵画作品の一つ

「ONE FUKUOKA HOTEL(ワンフクオカホテル)」のアート作品には、ホテルデザインのキーワードとなった「天神さま」を表現するため、稲妻のモチーフが多く登場する。

「仏教の絵画に来迎図がありますが、仏様が雲に乗って現れます。目に見えないものをどう意匠化し、どう様式化して描くか。日本画もそうだし、漫画に関しても、日本の捉え方は世界的に見ても非常に特異性があります。日本独特の価値観や環境から醸成されたものだと思います」

日本ならではのモチーフを、現代的な絵画作品に落とし込んだ。また、ほとんどが絵画作品の中に、一点だけ彫刻作品がある。御神輿(おみこし)や和太鼓などを制作する浅草「宮本卯之助商店」とのコラボレーションで、玩具太鼓と呼ばれる4.5寸の小さな太鼓を連結した「雷鼓」だ。

「和太鼓は大木から、まず一番大きい太鼓を作るんですね。それからマトリョーシカのように、残った部材から中くらいの太鼓を、さらに小さい太鼓を作っていく。最後に残るのが、玩具太鼓と呼ばれるものです。ただ木材なので、乾燥させる工程で歪んだり、割れたりするものが一定数出てしまう。楽器としては成立はしなくてもアートには活用できると、アップサイクル的な観点から作品に転用しました」

舘鼻さんの新たな作品が、「ONE FUKUOKA HOTEL(ワンフクオカホテル)」にどう展開されているのか。ぜひ現地で体感してみて欲しい。後編では、これからのアートについて、また、私たちにとってのアートの楽しみ方について、舘鼻さんのメッセージをお届けする。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

Text_ Fumiko Teshiba
Photo_ Sadato Ishizuka
Edit_ Taku Kobayashi

後編に続く


LATEST ARTICLE

新着記事