偶然は必然へ。一通のメールから始まった音楽制作
筑後市にスタジオをもつ糸山晃司さんは、街や身の回りにある「環境音」を取り入れて楽曲制作を行う音楽家だ。これまでに映画やCM音楽、またホテルなどの空間音楽を多数手がけてきた。
そんな糸山さんのもとに、9月、一通のメールが舞い込んだ。差出人は音楽と映像の制作会社「音と映像」の井上啓輔さん。新たに開業するワンビルの館内音楽を、ぜひ糸山さんと一緒に手掛けたい。ビルに入った瞬間に空気が変わるような、ふわりと包み込まれるような…そんな、これまでにない音楽体験を提供してみたい、と熱く書かれていた。
糸山さん:「突然のメールに驚きましたが(笑)、とてもうれしかったですね。僕は大学時代から20代後半まで福岡に住んで、天神ビブレでライブもしていましたから。思い出が詰まった天神で新たに開業するビルの音楽に携わらせてもらえるなんて、とても光栄なことです」
音楽家の糸山晃司さん。高校時代からバンドを始める。ミスターチルドレン、レディオヘッド、坂本龍一など、ポップス、ロックから現代音楽まで幅広く聞いてきた。
実は井上さん、糸山さんのことは知人づてには知っていたが、面識はなかった。
井上さん:「ワンビルに提案する音楽の企画書を練っていた9月、糸山さんが福岡で個展を開催されると聞いて、その前後含めた活動を興味深く追っていたんです。音楽を聞いて『これだ!』と。糸山さんの音楽は芸術性が高く、映画音楽などのフィールドで活躍されている方なので、引き受けていただけるか、ドキドキでした(笑)」
「音と映像」の井上啓輔さん。糸山さんの作る音楽の調整や設備面を担う。
糸山さん:「実は同時期に、ある映画音楽の制作が決まっていて、スケジュールが重なってしまうな、どうしようと思っていたんですが、その映画制作が延期になりまして。それで晴れて受けることができたんです」
井上さん:「これはもう運命ではなく、必然だったということですね(笑)」
施設全体に溶け込み、融和する 創造交差点を体現する音空間
井上さんと糸山さんがタッグを組むことは決まった。企画書を書き、サンプル音楽も完成。
それを受け取った西鉄の天神開発本部・福ビル街区開発部 開業準備室担当の平 知佳さんもまた、糸山さんの音楽を聞いて「これだ!」と思ったと言う。
開業準備室担当の平知佳さん。「企画書を拝見してすごくワクワクしました!」と語る。
平さん:「一般的な商業施設でかかっている音楽とはまったく違う。すごく新しいなと思いました。ある人には美しく響き、またある人には癒しを与える。聞く人によっていろんな感じ方ができる音楽。もしかしたら聞こえない人もいるかもしれない。それくらい人に、空間に溶け込む音楽だなと」
井上さんはそれを、「余白の美しさ」と表現する。
井上さん:「完全にできあがっている音楽ではない、聞く人に想像や解釈の余地がある音楽なんですよね」
糸山:「ありがとうございます。それは僕も目指しているところで、今回の音楽も、ビルが開業してテナントやお客さまが入って、聞く人がいて初めて完成する、そんな存在でありたいと思っています」
井上:「商業ゾーンからオフィスフロアまで音楽を流すというのは斬新な取り組みだと思います。ワンビルは多彩なテナントが集まる場所。それらが融和するような音空間になるといいですね」
平:「それはまさに創造交差点のコンセプトにぴったりですね!」
やさしく響き、心を癒す 無数の音が奏でるゆらぎが環境音の魅力
街や野山に出かけ、さまざまな「音」を収集して音楽をつくるのが糸山さんの制作スタイル。今回は特に「天神」の音にこだわり、雑踏の中や公園、高架下など、あらゆる場所でフィールドレコーディングを行っている。
糸山:「ワンビル建設中の金属音や、天神上空を飛ぶ飛行機の音なんかも収集しました。これらの音はいいスパイスになりそうです」
井上:「私もフィールドレコーディングに同行させてもらっていますが、その光景も面白いんですよ。音を採る糸山さんが完全に街の風景に同化していて(笑)」
平:「街の音がどう生かされてどんな音楽になるのか、とても楽しみです」
糸山さんがフィールドレコーディングに使用するレコーダー。
環境音にこだわる理由を、糸山さんはこう語る。
糸山:「現代の音楽って西洋のドレミファソラシドの音階で作られているものがほとんどですが、自然の音はドとレの間にも無数の音がある。フィールドレコーディングで集めたそんな偶発的な音を取り入れることによって、音楽に生命感が宿る。その有機的な感じが好きなんです。今回はそれプラス、思い入れのある天神であり、地域の特性や歴史という文脈もある。まさに今の自分の集大成的な音楽になると感じています」
糸山さんと井上さん、そしてワンビル。
これ以上ないタイミングで三者は出会い、響き合った。
音楽の街・天神に、創造交差点から未だ見ぬ新しい音の世界が広がろうとしている。
菅原道真ゆかりの場所で音収集。静寂もまた天神の音風景
1月某日。ビルの谷間の鳥居の前にひっそりと佇む糸山さんの姿があった。
水鏡天満宮。「天神様」として親しまれる菅原道真公をまつった神社だ。
天神のまちの環境音の収集のため、警固公園や西鉄電車の高架下など、レコーダーを携えてあちこちに出没している糸山さん。この日は「神社の音」を採りにここに来たと言う。
糸山さん:「ワンビルの館内構成やコンセプトを聞いた時から和のイメージはありました。特にホテルには菅原道真公をモチーフにした空間もあるとのことですので、館内音楽にも水鏡天満宮の音を組み込みたいと考えていました」
と言っても、「神社の音」なんてものが明確にあるわけではない。耳をすませてみても、時おり鳥のさえずりが聞こえるくらいで、境内は静ひつな空間だ。
糸山さん:「その静ひつさが神社の音なのかなと。都心でこれだけ人の声や交通音がない場所も珍しい。そんな“気配のなさ”もまた天神の顔のひとつだと思うんです。館内音楽でそれを表現できたら」
場所を変え、角度を変え、静寂な空間に漂う「音」にじっと耳をすませる糸山さんだ。
音収集中の糸山さん。レコーダーを通すと、小さな音や遠くの音まで耳に届く
音階ではなく、使うのはあくまで「ノイズ」
糸山さんが音楽制作を行うのは筑後市のスタジオだ。
制作も佳境に入り、「音と映像」の井上さんもスタジオに来て、糸山さんとともに制作中の音源をチェックする。
光が差し込む部屋に、いくつもの音が重なりあって広がる、優しい音楽が流れる。
モダンでありながら和やオリエンタルなムードも感じさせる、どこか不思議な、けれど心地よい音色だ。
井上さん:「いろんな音が聞こえますね。弦楽器や…雅楽器も入っているのかな? 印象的ですね」
糸山さん:「それは古琴ですね。シンセサイザーがメインですが、ほかにもギターやチェロ、チベット仏具のシンギングボウルなどいろんな楽器を使っています」
ギターやチェロも、普通に音階を弾くという使い方ではないのが糸山さん流。
糸山さん:「例えばマグネットで弦を振動させたり、ピッキングして弾いた音を逆再生して使ったりします」
井上さん:「あくまでもノイズとしての役割なんですね」
糸山さん:「そうです。まちで収集した音も、そのまま使っているものもありますが、ほとんどは加工して入れ込んでいるんですよ」
糸山さんのスタジオはクラシックな雰囲気。PCにキーボード、ギター、ドラム、丸太(!)も転がっている
シンギングボウルなどの民族楽器も効果的に取り入れる
空間を包み込む深い音色。完成後の化学反応を楽しみに
糸山さん:「うわあ…広さに圧倒されますね」
ワンビル開業まで3か月をきったある日。
この日、糸山さんは工事が進むワンビルの6階スカイロビーに初めて足を踏み入れた。
吹き抜けの高い天井に、7階まで続く大きな「コンビビアル階段」が目を引く。
糸山さん:「想像していた以上に重厚で、品格を感じる空間です」
井上さんが、制作途中の糸山さんの音楽を流すと、深い音色が空間をやさしく包み込んだ。
「いいですね」と井上さんも満足げだ。
井上さん:「今日実際に館内で聞いてみて、既存の施設の音楽とはまったく違う、新しい館内音楽になるということを確信しました。ワンビルが実際にオープンして館内に人の気配や話し声が加わると、この音楽もまた違った聞こえ方になるかもしれません。どんな化学反応が起こるか、それも今から楽しみですね」
開業前のワンビル・スカイロビーに身を置く糸山さん
「音量や音楽を流す範囲など、これから調整すべきこともたくさんあります」と語る井上さん